さようなら法政大学55・58年館

大内山と学生ホール

58年館の裏手にある憩いの場は「大内山庭園」と呼ばれていました 昭和52年(1977)撮影

 大内山庭園 

55・58年館を中心とする本校校舎は番地でいえば「千代田区富士見」なのですが、なぜか総称して「市ヶ谷キャンパス」と言われていました。現在もそのようなのですが、62年間や田町校舎などが新宿区の市ヶ谷にあるのでそれに配慮した感じもしていました。いまだにその理由はわかりません。そのキャンパスでの講義の空き時間の憩いの場といえば狭い本校の中ではやはり一階奥の「学生ホール」とその横にある「大内山庭園」でした。そこはまさに猫の額ほどでしたが庭園には築山や灯籠などとともにベンチが置かれていて、学生達が三々五々集まってのんびり時をすごしていました。


58年館は学生課で手続き中の学生 庭園のベンチでは憩う学生が 昭和52年(1977)撮影
築山に腰掛けたり ベンチではあの頃のファッションの女子学生が 昭和52年(1977)5月撮影
庭園の向こうが学生ホール

雪景色の大内山の風景も冬には見られた

左:昭和52年(1977)、右:昭和54年(1979)撮影


 
庭から見上げる58年館の姿はほとんど変わらないが奥の景色は遮られてしまった

左:昭和52年(1977) 右:平成26年(2014年)撮影


 学生ホール 

学生ホールは55・58年館の一階奥のスペースにあり、テーブルや椅子が設置され自由に過ごす事ができるようになっており、そばには生協の書籍部(たしか新刊も割引で買えた)やコーヒースタンドのコーナー、売店などもありました。またホール内の階段を登った二階はたしか教職員食堂などの設備があったと思います。ここの回廊にあがって下のホールを見渡すこともできました。 もっとも当時の学生ホールは学館に入れなかった(あるいは入っていてもあまり利用しない)サークルや団体がほぼ自分たちのテーブルや椅子を確保していてそれに属さない学生たちの居所がなかったという事実もあります。とはいえ一限の開始前にサークルのだれかがお決まりのテーブルをおさえなけられなければいけなかったこともあり、「既得権」というほどのものではなかったのではないでしょうか。このようなサークルは連絡用に近くの柱などに「掲示板」というような貼り紙をしてコミュニケーションをとっていました。学館については私はあまり行かなかったので記憶がありません。

窓が大きく開放的なホールだった。サークルのロッカーがあちこちにありまさに部室のようだった 昭和52年(1977)5月撮影
今思うとホールの壁などのデザインも意匠がこらしてあるのに気づく 昭和52年(1977)10月撮影
ホールの角のスタンドで珈琲や軽食、そして売店で買い物も 昭和53年(1978)5月撮影

ただ面白いのは一部の講義が終わる5限を境目に座っていた各サークルの面々もテーブルの後片付けをして引き上げてしまい、がらんとしてしまいます。そして夕方六時近くになると今度は二部の学生達がやってきて同じようにお決まりのテーブルについてひとときを過ごすのです。その二部ももう廃止されてしまい、不夜城のような活気のある夜の法政のキャンパスの姿も語り草になってしまいました。

2階の回廊から見下ろしたホール 一番賑やかな時間はこんな感じだった 昭和53年(1979)4月撮影
サークルの仲間たちと過ごす時間は楽しかった 昭和52年(1977)10月撮影

 
ホールの窓は大きく光が振りそそぐ 法政の“H”がデザインされた桟も印象的だった

左:昭和52年(1977)10月撮影 右:平成26年(2014)撮影の同場所

2014年のホール 空調ダクトが目立つがやけにさっぱりしてしまった

ついに大教室511も取り壊され、南棟(仮称)の工事が始まった 平成28年(2016)9月撮影

2016年8月のゲート棟完成と正門使用開始に続き、南棟建設工事も本格化されて55年館名物の大教室511も解体工事が始まりました。同時に旧学生ホールも使用禁止、地下も食堂ほかも立ち入り禁止となり、55・58年館の建物を残すものも次第に少なくなってきてしまいました。


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